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駐日米国大使発米国務省宛て3本の極秘公電の翻訳文を公開する  2015.06.20

 以下に掲載するのは1959年4月から11月にかけて、ダグラス・マッカーサー2世駐日米国大使(筆者註:連合国最高司令官として知られているダグラス・マッカーサーの甥)から米国国務省宛てに送られた3本の秘密公電を私が翻訳した、その全文である。

 すでにお知らせしてきた通り、6月18日に、砂川判決再審請求訴訟の原告、土屋源太郎さんらによる記者会見が衆院議員会館で開かれた。

 この翻訳の内容は記者会見の席上配布されたものと同一のものであるが、そのコピーをそのまま転載したものではなく、原告側が指名し、東京地裁が公認した原告側翻訳官としての私が、自らの原稿に基づいて再現したものである。

 なぜそうしたか。それは、翻訳した時の私のその時の心境を共有してもらいたいと思ったからである。

 6月18日の記者会見でも話したが、私はこの公電を、ひとつの光景を頭に描きながら、そしてこの公電を発見したジャーナリストや学者の方たちに敬意を表しながら、私の高ぶる感情をぶつけるように一字一句翻訳したのだ。

 この国の司法の最高権力者が、よりによってみずから何度も足を運び、米国政府から全権を委任されているマッカーサー駐日米国大使と都内某所で何度も密会を重ねているその光景はあまりにもおぞましい。

 砂川判決の情報提供とみずからの私見と司法指揮権限をあますことなく伝え、米国政府の意向に迎合する。

 これは裁判の中立と守秘義務と言う根幹を否定する不当、不法な行為である。

 あってはならないことだ。

 それをこの国の司法のトップが自らおかしていたのだ。

 当時の報道をひもとくと、予断や司法介入があったのではないかという疑義に対し、田中耕太郎は「一切ない」と言い切っている。

 どのような顔をしてそこまでの虚偽答弁が出来たというのか。

 そのような田中耕太郎最高裁長官に、この国は、菊花大綬章という最高位の勲章を与えている。

 私はここに、この国の戦後一貫した対米従属の原点を見るのである。

 歴代のこの国の指導者たちは、すなわち自民党政権の首相らは、あるいは密約を重ね、あるいはウソの答弁を繰り返して、ことごとく日本国民の願望より、米国の命令を優先させ、それに従ってきた。

 その対米従属ぶりは、時代的背景や首相の個性によって、程度の差はあったが、その本質はいささかも変わらなかった。

 しかし、いずれの首相も米国の命令と国民の声の狭間の中で、揺れ動き、悩んだ。

 ところがついに戦後70年と言う節目の年に、安倍首相という、何のためらいもない暴走首相によって、この対米従属が憲法9条否定の安保法制案成立の強行と言う形で、完成させられようとしている。

 そんな矢先に、田中耕太郎最高裁長官と彼の下した砂川判決の根本的な違憲判決が、皮肉にも、米国の極秘公電の公開と言う形で、満天の下にさらされたのである。

 天網恢恢という言葉があるが、いままさに、神の手によって、「米軍基地は憲法違反であり、米軍基地を容認した日本政府は憲法9条をおかした」と断じた1959年の名判決、伊達判決がよみがえったのである。

 伊達判決がよみがえって安倍暴政にストップをかけたのだ。

 安倍首相は憲法9条によってひとたまりもなく罰せられようとしている。

 我々の憲法9条を守るという気概がそれを現実のものとするのである。

 戦後の日本の政治史のクライマックスを、国民の手で安倍首相を弾劾するという形で飾るのだ。

 その思いを込めて、私は翻訳文の全文を以下に公開する。

1.    1959年4月24日付電報

 最高裁判所は4月22日、砂川裁判の東京地方裁判所判決に対する最高検察庁による上告趣意書の提出期限を6月15日に設定した。これに伴い、被告の弁護側は彼らの立場を示す文書を提出することになる。
 外務省当局者は大法廷での上告の審理はおそらく7月中旬までに始まるだろうと我々に伝えている。しかし、現時点では、判決が下される時期を推測するのは不可能である。田中裁判長は大使(筆者註:マッカーサー駐日米国大使)との内密の会話の中で、本件訴訟は優先権が与えられているが、日本の手続きでは、判決に至るまでには、審理が始まった後少なくとも数か月はかかる、と述べた。

2.    1959年8月3日付電報

 共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は駐日米国大使館首席公使に対し、砂川裁判の判決はおそらく12月になると今は思うと語った。田中裁判長はまた、弁護団は裁判の結審を遅らせるためにあらゆる可能な合法的手段を試みているが、彼(筆者註:田中裁判長)としては争点を事実問題ではなく法的問題に限定することを決めていると述べた。この考えに立って、彼は、9月はじめに始まる週から週一回、それぞれ午前と午後の二回開廷すれば、遅くとも三週間で口頭弁論を終えることができると確信している。問題はその後に生じうる。なぜなら彼の14名の同僚裁判官たちの多くがそれぞれの見解を長々と論じたがるからだ。裁判長はまた、結審後の評議が、実質的に全会一致の判決が下されるような、そして世論を”乱す“少数意見が回避されるようなやり方で行われるよう希望していると付言した。

コメント(筆者註:これは米国公電に書かれている言葉で米国大使のコメントである。私のコメントではない)

 (米国)大使館は最近、外務省や自民党の情報源から、日本政府が新日米安全保障条約の提出を12月から始まる通常国会まで延期する決定をしたのは、砂川裁判判決を、最高裁判所が当初意図していた晩夏ないし初秋までに出す事が不可能になった事に影響されたという複数の示唆を得た。これらの情報源は、砂川裁判の進捗状況が新条約の国会提出を延期した決定的理由ではないが、砂川裁判が審理中であることは、そうでなければ避けられたであろう、社会主義者やその他の野党に論争点を与えかねないと受け止められていることを教えている。さらにまた社会主義者たちは米軍の日本駐留は憲法違反であるという地方裁判所の判決に強く傾倒している。もし最高裁判所が地方裁判所の判決を覆し、国会で審議が行われているその時に、政府側に有利な判決を下すなら、新条約を支持する世論の風潮は大きく助けられ、社会主義者たちは政治的柔道の中で、みずからの奮闘により逆に投げ飛ばされることになろう。

3.    1959年11月5日付電報

 田中裁判長との最近の非公式の会話の中で、我々は砂川裁判について短い議論をした。裁判長は、時期については明言できないが、いまや来年のはじめまでには最高裁は判決を下すことができるだろうと言った。彼は、15人の裁判官にとって最も重要な問題は、この裁判に取りかかる際の最大公約数を確立することだと見ていた。田中裁判長は、可能であれば、裁判官全員が一致して、適切で、現実的な、いわば合意された基本的規準に基づいて裁判に取りかかることが重要だと言った。彼は、裁判官の何人かは「手続上」の観点から事件に取りかかろうとしているのに対し、他の裁判官は「法律上」の観点から事件を見ており、さらにまた「憲法上」観点から問題を考えている者もいることを、示唆した。

 (私は田中との会談からつぎのように推測できた。すなわち何人かの裁判官は、伊達判事を裁判長とする第一審の東京地方裁判所には米軍駐留の合憲性について裁定する司法権はなく、東京地方裁判所は、みずからの権限と、米軍基地への不法侵入という東京地方
裁判所に最初に付託された争点を逸脱している、という厳密な手続上の理由に基づいて判決を下す考えに傾いている。
 他の裁判官は、最高裁判所はさらに踏み込んで、最高裁判所自身が米軍の駐留が提起する法律問題を扱うべきだと考えているようだ。
 さらにまた他の裁判官は、日本国憲法の下で日米安保条約は憲法より優位であるかどうかという、憲法上の問題に取り組むことを望んでいるかもしれない。)
 田中裁判長は、下級審の判決が支持されると思っているような様子は見せなかった。それどころか反対に、彼は、それは覆されるだろうが、重要な事は、この事件に含まれている憲法上の争点について判断が下される場合は、15人の裁判官のうち、できるだけ多くの裁判官が一致した判決を下すことだと考えている印象だった。すなわち、伊達裁判官が憲法上の争点について判断を下したことは大きな誤りであったと、彼は述べた(了)

日本国憲法を書いたチャールズ・ケーディス氏の言葉  2010.10.12

 産経新聞の古森義久ワシントン駐在編集特別委員は「体験的日米同盟考」という連載を産経新聞に書いている。

 この連載は文字通り彼の体験に基づいて書き綴られた彼の日米同盟重視論である。

 その考えの多くは私のそれとは異なるが、少なくとも彼の書く事が脚色のない真実であれば教えられる事が多い。

 10月11日の連載第28回は、日本国憲法9条の成立過程に関する体験談が書かれている。そして、だから憲法9条は変えるべきだと書いている。

 その記事は次のような言葉から始まる。

 「『日本の憲法は米国が書き、押しつけてきたのです。内容がもう時代に合わない以上、その改正には米国側も協力すべきです』
  江藤淳氏が熱をこめて語った。米国人のほとんどの聴衆は黙ったままだ。
 1980年3月、ワシントンのウッドロー・ウイルソン国際学術センターでの研究発表会だった。この国際問題の大手研究所に研究員として来ていた江藤氏は改憲の勧めを米側にまでぶつけるのだった。当時としては非常に大胆だった・・・」

 そして古森氏はその江藤氏に勧められて1981年にチャールズ・ケーディス氏に会ってインタビューした。その時のケーディス氏の言葉を次のように再現してみせる。

 チャールズ・ケーディス氏とは、連合国軍総司令部(GHQ)の民政局次長として日本国憲法起草グループの実務責任者であった人物である。

 私の頭の中には占領時代の歴史的人物というイメージしかないケーディス氏であるが、古森氏がインタビューしたという1981年当時には、まだ75歳の健在な弁護士だったのだ。決してそんな昔のことではない。

 古森氏によればケーディス氏は1946年2月の10日間、日本の憲法起草にあたったという。いうまでもなく日本国憲法はその後1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行されている。

 そのケーディス氏は古森氏につぎのように淡々と語り続けたという。

 「・・・憲法9条の戦争放棄などは私が書きました。ホイットニー局長(註:GHQ民政局長であったホイットニー准将のこと)から渡された黄色い用紙(註:いわゆるマッカーサー・ノートと呼ばれる憲法草案の大まかな内容の指示)に3,4の要点の指示が書かれていました。同局長がマッカーサー司令官の口述を記録したノートのようだと思っていました。そこには『自国の安全保障のためでも戦争は放棄する』という記述がありました。しかし、どの国にも固有の自衛の権利はある。だから私はその記述は理に合わないと思い、自分の一存で削除しました・・・」

 この言葉を引用した後に、古森氏は次のように解説している。

 「・・・(憲法)草案は米国の陸海軍と国務省の連合組織が大枠を決めていたが、具体的な部分は当時39歳の同氏のような現場の法律実務家たちに任されていたというのだ・・・」

 そしてケーディス氏の言葉の引用は続く。

 「この憲法の意図は当初は日本を永遠に武装解除されたままにしておくことでした。だが米国の対日外交の手をしばる効果をもたらし、米国としては賢明ではない状態がうまれてしまったといえます・・・」

 そして古森氏はこのケーディス氏の言葉を引用した後、次のように第28回の連載を締めくくっている。

 「・・・このように異端だらけの日本の憲法は日米同盟をも異色の形で縛り続ける効力を発揮していくのだった」

 つまり古森氏はケーディス氏の言葉を引用する事によって、憲法9条は、その成立過程から見ても、そして日米同盟をその後の国際情勢の変化に合わせて強化するためにも、改正されるべきであるという自らの考えを述べているのである。

 私の考えはまったく逆だ。江藤淳の冒頭の考えと真逆だ。

 米国が押しつけた憲法9条が米国を縛る事になった。

 その憲法9条を米国はなぜ変えようとしなかったか。

 日本の再軍備を許さないソ連ほかの連合国に配慮したこともあっただろう。

 しかし、その憲法を受け入れ平和国家を誓った日本国民の反発をおそれて改正しろと命ずる事はできなかったのだと思う。

 そして、憲法9条を変えることなく、その憲法9条を否定する日米軍事同盟を日本に締結させたのだ。

 日本全土に、「好きな時に、好きなだけ、好きな場所に」米軍基地を置くことを認めさせ、在日米軍の治外法権を飲ませた。

 それがそのまま今日まで続いている。

 いまこそ日本は米軍が押し付けた憲法9条を逆手にとって、憲法9条を日本の最高法規として尊重することを再確認し、日米軍事同盟からの自立を目指すべきであると考える。

 冷戦が終わって20余年もたち。国際情勢は様変わりだ。

 あらゆる意味でこれ以上日米軍事同盟を続けていく事は日本国民のためにならない。

 いまこそ我々は戦争国家米国からの自立を目指さなければならない時である。

 古森義久氏の「体験的日米同盟考」に惑わされてはいけない。

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